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バスケットボールの発祥

2018年11月 関西学院大学KGAA寄附講座「バスケットボールの発祥と関学大BB部の歴史」より抜粋

バスケットボールの誕生

1885年(M18)

米スプリングフィールドにキリスト教奉仕者学校 発足(1954年にスプリングフィールド・カレッジに改称)
※当時、全米で急増していたYMCAは、今日の社会体育・スポーツ施設としての先駆者的役割を発揮し始めていたが、それとは別にYMCAにおける一般事業担当主事の養成が目的(総務・会館・宗教・会員などの部門の担当主事)

1887年(M20)

体育・スポーツ指導者の必要性が高まり、体育部主事養成科 発足
この頃の室内体育・スポーツはキャリスセニクス(Calisthenics)と呼ばれる。主に女性対象の健康増進や美・力を得ることを目的とした一連の柔軟体操や単調な反復体操が主流であった。しかし、時代はレクリエーション的要素と競技的要素を備えた新しい室内体育・スポーツを望んでいた(身体の鍛錬そのものが狙い)

1891年(M24)

国際YMCAトレーニングスクールと改称。

体育部チーフのL.H.ギューリックがネイスミスを含む教員にセミナーを開講し研究課題を出した。
「問題は冬の間、体育館でおこなう授業だ。春から秋までは野球、水泳サッカー、フットボールと事欠かない。
だが、ここ(スプリングフィールド)は冬はかなり雪があるので、こういったスポーツは不可能だ。
つまり、冬季に照明のついた屋内で出来る“新しいゲーム”が必要なのだ!
しかも、おもしろくて、覚えるのもプレイするのも簡単でなくてはいけない。
この“新しいゲーム”を作り出すことがこのセミナーの目的だ!」

J.ネイスミス

バスケットボール発祥の地

アメリカ合衆国における大森兵蔵の関係地(○印)

J.ネイスミスがバスケットボールを考案するまで

ネイスミスは、まず初めにサッカー、アメフト、ラクロス(元はインディアンのやっていたものを白人が改良したもの)などの屋外スポーツの作り変えを試みた。
しかし、いずれも一長一短があり体育館でのスポーツには合わなかった。
そこで根本的に着眼点を変えて、個々のスポーツを取り上げて変えるのではなく共通の特徴を洗い出した。

どれにもボールが使われていること。ボール保持者が自由に移動することを禁止すること。頭上の手の届かない高さに水平のゴールを設置すること。相手を叩いたり、押したり、捕まえてはならないこと・・・などの基本原則を考え出し、とうとう今日のバスケットボールのゲーム形式を案出した。

1891年(M24)12月21日 午前11時30分
できたてホヤホヤの新しいゲームが始まった。(サッカーボールを使用)
珍プレイ・ラフプレイの応酬が繰り広げられること約1時間、チェイスという学生が投げたショットが奇跡的に成功し1対0で史上初のゲームが終了した。

ネイスミスの苦心作は大成功だった。
国際YMCAトレーニング・スクールの冬季の屋内体育・スポーツの問題は一気に解消した。
そればかりか全米のYMCAにとっても憂慮していた冬の体育館におけるプログラムの願っても無い福音となった。
バスケットボールがウインタースポーツと呼ばれる所以である。
そしてまたたく間にアメリカの体育・スポーツ界に根づいた。

初期のゴール

初期のボール

ところで12月21日時点でこの新しいゲームにまだ名称を付けていなかった。
それに、ゴールも45センチ四方大の箱を体育館の両端に据えることにしていた。ところが適当な箱がなく、桃を入れる籠・・・といっても実際には10センチ幅位の薄い板で作られた桶に近いものを使った。

初めての試合の後、マーンという学生が、名称をめぐってネイスミスと話し合った。
そして、マーンが籠とボールを使うのだから“バスケットボール”という名前がふさわしい・・と提案。これにネイスミスが同意して、以後正式にBasket Ballと呼ぶこととなった。ちなみに1921年(T10)からはBasketballと一語で表すようになった。

初期のルール

  1. ボール:サッカーボールを使用。 
  2. ゴール:桃を収穫する籠を使用。(当初は底があった)
    次に底を抜いたがボールは落ちず、棒で突いて落とした。
    当初はバックボードはなく、観客がシュートの邪魔をしだしたため、バックボードを設置。
    ゴールの高さはオーバーヘッドランニングトラックの柵に取り付けられたことで決まった。(10フィート 3.05m)
    後に鉄のリングに、網状に編まれた底が縫われたヒモが付けられた。
  3. 人数:広さに応じて変化していた。最初の試合は9対9など。(ガード・フォワード・センター 各3名ずつ)
  4. 最初のルールにはドリブルは無かった・・パスのみ
    ボールを投げた本人がまたキャッチし始めたことから進化した。
  5. ゴールは1点:得点後はセンタージャンプで再開。
  6. 競技時間は15分ハーフとし、5分間のハーフタイムを置く。
  7. 同一チームが3回連続反則を取られると相手チームに1点入る。

初期のバスケットボール

バスケットボールは徐々に技巧のスポーツになっていったが、初期の試合は乱暴でフットボールやラグビーのようにプレー上、選手同士の接触が多かった。
近年のサポーターは選手の関節や筋肉の保温、腕や足の特定部位の固定・サポートとして使用されるが、当時は選手同士のぶつかり合いから身を守るプロテクターとして着用されていた。(詰物をしたパンツ、ひざあて、肘あては標準装備であった)

ケイジャー

観客からの妨害や、それに腹を立てた選手とのケンカを防止し、混乱から試合を守るため、コートを囲むように金属製のケイジ(cage)が付けられた。
このケイジの中でプレーする様子から、バスケットをする人をケイジャーと呼んだ。
cage: 鳥かご、檻、(バスケットなどの)ゴール

このケイジの恩恵を受けるはずの選手達であったが、金網は弾みやすく、しばしば選手に接触し選手達が切り傷を負うことも珍しくなかった。選手は金網と相手選手を同時にかわさなければならなかった(徐々にロープ製のケイジに変わっていった)

初期のロープ製ケイジと選手

参考 : バレーボールの発祥

1895年(M28)2月

アメリカのウイリアム・G・モーガンがテニスやバドミントンを参考にしてバレーボールを考案した。
背景:インドアスポーツとしてバスケットボールが大流行していた。しかし、①バスケットボールは体の接触が多く怪我をしやすい②中高年や女性には運動量が多すぎる・・・という理由で誰でもが気楽に楽しめるスポーツが必要ということになり、必然に迫られてバレーボールが考案された。

1896年(M29)

モーガンはこの新ゲームをスプリングフィールドのYMCA体育指導者会議で公開。
当初は 「ミントネット」という名前で、バドミントンのミントンとほぼ同義語ではないかと言われているようです。
テニスでいうボレー(volley)地面に落ちる前に打つことからvolley ballとなり1952年以降volleyballと一語になった。

日本への伝来

大森兵蔵(おおもり ひょうぞう)

1876年(M9)岡山県生まれ
同志社予備校(同志社大学)、東京高等商業学校(一橋大学)
スタンフォード大学に入学するもいずれも中退

1905年(M38)

国際YMCAトレーニングスクール入学(体育部主事養成課程)

1907年(M40)

国際YMCAトレーニングスクール卒業
アニー(安仁子)と結婚。大森31歳、アニー50歳。

1908年(M41)

アニーと共に帰国し東京YMCA初代体育主事就任、日本女子大講師兼任
バスケットボール、バレーボールを初めて日本に伝えた。
※日本にバスケットボールを紹介し発展させたのはYMCAであることに間違いはないが誰が伝えたかについては先人争いがある。
⇒現在では大森兵蔵が定説になっている。

大森兵蔵と安仁子

1911年(M44)

IOC委員に任命された嘉納治五郎が、日本のスポーツ全体を統括する機関が必要であると説き、大日本体育協会を設立した際にそのメンバーに抜擢される。

1912年(M45・T1)

スウェーデンのストックホルム第5回オリンピック大会に日本が初参加するが監督として参加。
日本選手団は金栗四三(マラソン)、三島弥彦(短距離)が参加。

1913年(T2)

スウェーデンからの帰国途中アメリカで結核のため死去。
妻アニーは日本に戻り二人で興したセツルメントハウス「有隣園」を経営したが、異国の地で一人寂しくこの世を去った。有隣園で送る日々こそが夫と共に過ごす神からの恵与の日々であった(夫唱婦随・・・彼女は敬虔な清教徒であった)
※夫が言い出し、妻がこれに従うこと。夫婦の道をいう。
※セツルメントハウス:貧しい地域に施設をつくり、その地区の向上を助ける社会福祉施設。 
(有隣園は幼稚園・授産所、図書館などを兼ねていた・・・東京 新宿の成子天神近辺)

参考 : オリンピック裏話

金栗 四三(かなぐり しそう あるいは かなぐり しぞう)

マラソンレース中、日射病で意識を失い近くの農家で介抱されるも意識が戻ったのは翌朝 ⇒ 消えた日本人・・・として有名に。
(40℃という記録的暑さの中、68名中半数が棄権、1名が死亡)

1967年(S42) スウェーデンからオリンピック開催55年式典に招待受ける。当時、棄権の意思が伝わっておらず、これに気づいたオリンピック委員会は金栗氏を式典でゴールさせた。タイムは54年8ヶ月6日5時間32分20秒3・・・これは破られることのないオリンピック史上最も遅い記録

以後、日本のマラソン界の発展に大きく寄与し「マラソンの父」と呼ばれる。また、アメリカ大陸横断レースを計画、ロッキー山脈越えがポイントとされた。
アメリカ大陸横断レースは、実現しなかったが山越えを想定したコースを箱根に求め、これが現在の箱根駅伝に繫がっている(T9年 第1回大会)
グリコのゴールマークのモデルの一人。

YMCA(Young Men’s Christian Association)

1844年(天保15/弘化元年)

12名のキリスト教青年によってイギリス・ロンドンで青年層に対する啓蒙および生活改善事業のための奉仕組織として創立された。
活動の根幹にキリスト教を据えているが、ボランティアおよびプログラムの参加者の信仰を規定してはいない。

1855年(嘉永7年)

第1回世界YMCA大会がパリで開催。
※120ヶ国以上の国で活動している。

日本のYMCA

①1880年(M13) 東京YMCA設立
②1882年(M15) 大阪YMCA設立
③1884年(M17) 横浜YMCA設立
④1886年(M19) 神戸YMCA設立
⑤1888年(M21) 初の大学YMCA 東京大学YMCA設立
⑥1889年(M22) 京都YMCA設立
※現在、35の都市YMCAと37の大学・高校にある学生YMCAが日本で加盟

出典:水谷 豊. 白夜のオリンピック―幻の大森兵蔵をもとめて. 平凡社, 1986年, p.251

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