沿革

軌跡

1923年~

1922年(T11)に関学・体育主事として赴任したA.C.ブラッドレイ氏から手ほどきを受けたのが、1923年(T12)に入学された初代の主将・広瀬満直氏であった。当時のメンバーは、テニス・サッカー・陸上の寄せ集め同期の仲間によって始まったのが、わがバスケットボール部の創部となった。
コートは原田の森(現王子公園)校舎グランドの西南片隅の野外であった。その年の第1回関西選手権大会にはメンバーが揃わず棄権をした記録があるが、第2回全関西選手権大会には3位、第5回には既に優勝した記録がある


創部当時のメンバー(大正15年10月31日、原田の森の学院コートにて)

1891年~

1891年(M24)アメリカでネイ・スミス博士によって創案されたバスケットボールを日本に導入した一人に宮田守衛氏、関学OB(前院長、宮田満雄氏の父君)がいた。
氏は、アメリカ・スプリングフィールドの国際YMCAトレーニングスクールを卒業後、神戸YMCAの総主事として帰任、この競技を紹介されたのが、1912年(T1)である。

1926年~

1926年(T15)、運動部(現体育会)に正式加入を認められた。12月には関西学生籠球連盟を結成し、日本の東西を代表する大学・定期戦で最古のものと評価されている早稲田大学との定期戦、第1回の試合が早稲田大コートで行われた。
上ヶ原に移っても室内コートは望むべくもなく土のコートでの練習、しばらく後に、露天の床張りコートになりはしたものの雨ざらしのために次第に傷んで、板が一枚一枚反り上がって、あちこちで板がささくれているという危険なコートしかなかった時代でもあった。


第2回早関定期戦(昭和2年10月23日~25日、神戸YMCA)

OB紹介

フリーマンを輸入した男 谷 紳一 昭和31年卒

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谷先輩(S31卒)は、昭和49年 ハワイ松下の支配人でした。昭和48年にハワイ大学が日本に遠征してきましたが、その時大変能力の高いガードがいました。後に松下電器に入社した初の外国人選手ジェロームフリーマンです。
谷先輩がバスケットOBであったこともあり、そのルートで話が進み松下入りが決まり谷先輩は彼を日本に送り込みましたが、当時日本は米国に家電製品を沢山輸出していました。それでフリーマンの日本行きが決まったときシカゴの新聞は[日本が作れないバスケットボール選手を輸入した]と皮肉を込めて報道しました。

1939年~

1939年(S14)、明治神宮大会が明治神宮国民体育大会に改称された年の翌年、1940年(S15)第11回明治神宮国民体育大会兵庫県予選では神戸学士俱楽部を破り優勝、本大会には現役・OBとの混成チーム関学俱楽部で優勝し、初の全国制覇を成し遂げている。
関西学生バスケットボール創成期の基礎をつくったと言われている当部は、戦前から戦中にかけて輝かしい戦績を残し、関西学生リーグ戦や関西学生選手権等を数多く制している。当時は、優勝するとチャペルの時間に優勝旗・カップが飾られ最前列で院長から祝辞、讃美歌で祝福をして貰った時代もあったようだ。
この間、多くの名選手を輩出していたが、波部久太郎(1935年S10卒)、大久保修造(1946年S21卒旧姓土野)は、日本代表選手として選抜され、国際大会等で活躍した。第15回早稲田大学の定期戦で初めて早稲田に勝利し、以後第17回まで3連覇している。
戦時中、籠球部は鍛錬部の中の競技科・籠球班と位置づけられているが、一時期、部活動も停止になり、第一次、第二次の学徒出陣が始まり多くの先輩諸氏を戦場に送ることになった。不帰の人となった戦死者は、学院の記念碑に、その名前が刻まれている。暗黒の不幸な時期でもあった。


第3回西日本総合選手権大会での関学クラブ優勝

1949年~

戦後の部活動の復活は戦地からの復員復学に始まった。
戦後、各大学の足並みが何とか揃うようになり、春夏のリーグ戦が行われるようになったのは、1949年(S24)の4月であった。当時も、学院に体育館はなく、主として西宮体育館・神戸・大阪YMCA体育館を中心に,阪神間の高校の体育館を使用しての練習の日々であった。しかし、当部は、関西の雄として、またも名を馳せている。

1951年~

特に1951年(S26)から1960年(S35)までの10年間は、関西リーグ5回の優勝、西日本学生選手権大会においては4連覇を含む6回の優勝を遂げており、正に、この時期は関学バスケットボール部の戦後の黄金時代と言われている。
特に、1954年(S29)には、石塚一郎監督(S16年卒)のもと早稲田大との定期戦に勝ち、第1回近畿総合選手権大会で実業団の雄、松下電器(現パナソニック)を破り、優勝、全日本総合では、学生2位の日大に勝って、全日本総合成績5位となっている。


昭和29年、第1回近畿総合選手権で松下電器を破って優勝


昭和32年度、卒業送別会

OB紹介

栄光の6人 水野 明人 昭和47年卒
ミズノ株式会社 代表取締役社長
関西女子学生バスケットボール
連盟 会長

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日々鍛錬して2年生で迎えた昭和44年の関西学生バスケットボール新人戦。たった6人で試合に臨んだ。
6人でのウオーミングアップに対し相手校は数十名でのパス練習、とても勝てないと思ったものだ。しかし、幸いなことに全員が絶好調だった。多人数の相手校を難なく破り、あれよあれよという間に決勝戦まで進出。決勝戦ではスター選手2人を抱える同志社に敗れはしたものの6人が一致団結して掴み取った準優勝は今でも良い思い出となっている。

この準優勝に関してはエピソードがある。この年の西日本学生バスケットボール選手権では、我校は残念ながらベスト8止まりだった。この結果に怒った監督から「全員坊主だ!」と言われ、人生で初めて坊主頭になる覚悟を決めた。しかし、その時「2年生は新人戦で準優勝という結果を出した。坊主免除」という有難い一言が。おかげで人生においていまだに坊主頭になったことはない。その後、アメリカへの留学が決まり3年生になる年に引退の道を選んだが、大きな目標に向かって厳しい練習をつんだ経験は今でも大きな糧となっている。

1961年~1994年

黄金期以降低迷期が続いたが、昭和45年度のインカレにおいて、東京教育大学(現・筑波大学)を破り久々にインカレで6位に入賞した。
また、昭和35年以降、永らく優勝から遠ざかっていたがスポーツ推薦の無い時代において、昭和50年関西リーグ戦で15年ぶりに奇跡の優勝を果たした。
しかし、その後は再び低迷、リーグ戦に於いて二部降格など厳しい時期が続いた。


     昭和45年インカレ6位入賞

1995年~

1995年(H7)からスポーツ推薦復活による選手補強が奏功し、1998年(H10)に23年ぶりに関西リーグ戦で優勝、翌1999年(H11)には39年ぶりに西日本学生選手権を制覇し、古豪復活との賞賛を得て「灯りは消えていなかった」ことが証明された。


39年ぶり西日本優勝

2012年~

1995年(H7)からは、新たに女子部も発足し活動を続け、2012年(H24)には、兵庫県総合選手権で男女アベック優勝を果たし、往年の伝統の復活が頼もしい。
創部以来、今日まで故人を含めるとOB/OGの卒業生は500余名になるが、更に、この後も脈々と受け継がれる伝統を輝かせることを願っている。


創部以来、当部の発展を支え導いて頂いた恩師の先生方に感謝と敬意を表わすとともに、日本のバスケットボールの発展に尽くされた草創期の諸先輩の功績に対し深甚の感謝を捧げる。

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